6/16/2015
12/09/2013
鮭にまつわるあれこれ
塩鮭製法の考察
鮮魚店の店先に新巻鮭が吊るされる季節となりました。寒風に干してある姿は初冬の風物詩で、年の瀬を感じる光景でもあります。塩鮭は私にとって年越し魚であるからです。幼い時、祖父母の家に親戚中が集まりお膳を囲みました。正座や箸の持ち方を祖父に正されたことと共に、塩鮭の皮を残さず食べよと言われたことを昨日のことのように思い出します。私は皮が苦手だったので鼻をつまんで飲み込んでいましたが、大人になった今はその美味しさがわかります。
新潟県内では村上市の「塩引き鮭」が有名ですが、新巻鮭とは製法などが異なるそうです。また城下町村上ならではの腹の裂き方と干し方があります。上記写真の新巻鮭は腹を一直線に開き、頭が上になっていますが、村上のものは二つ割になっていて尾の方を上にして吊るしています。こちらの塩引き鮭専門店のサイトに画像があります。腹を二つ割にするのは「切腹を嫌ったため」、尻尾を上にして吊るすのは、「首吊りを連想させ縁起が悪いから」と聞いた事がありますが、はたして文化的な理由だけなのでしょうか。
作家の荒俣宏さんが「超博物誌」の中で鮭について連載しています。その3回目に村上の塩引き鮭の製法由来について、須藤和夫さんの著書『三面川サケ物語』(朔風車刊)を引きながら推理が展開されています。以下引用です。
1、頭を下にすると、サケの目が見やすい位置になり、塩引きの出来具合をチェックしやすいから。じつは、頭がいちばん乾燥しにくいので、目の部分を点検して乾燥具合を調べる必要があるのだ。
2、 頭を上にして縄でつるすと下半身にシワが寄って魚の姿が悪くなるから。
3、 下にすることで「いちびれ(胸鰭のこと)」に脂の旨味が集まるから。いちびれは正月の儀式に用いるサケの最重要部分である。
引用終わり。
1と2の理由は合理的に思えます。3についてはどうなのでしょうか。
イクラの醤油漬けをつくる
さて鮮魚店で私が求めたものはメスの生鮭です。身も大好きですが目的は筋子。筋子をばらしてイクラを作ろうと思い立ったのです。保存性を考慮し醤油漬けを作ることにし、こちらのレシピを参考にしました。http://ikura.nomaki.jp/
やってみると意外と簡単で、誰でも美味しく作れるものだと思いました。
行程を記録してみます。1、生鮭は鮮魚店でさばいてもらいました。入っていた筋子の重量は770g。切り身は20個、それにアラとで約2.6kgでした。
切り身は美味しさが筋子にいっているのではと考え、塩をふってから味噌漬けと塩麹漬けに処理。アラは大根と炊きました。
2、筋子を塩水の中でばらします。この行程がもっとも大事で(当たり前ですが)、白い膜を丁寧に取ることでくさみのないイクラになるそうです。ぬるま湯の中でばらしてもよいというアドバイスもありましたが、卵の膜が硬くなりゴムのような食感になるという記述を読んだので、水の中で行いました。何度も塩水を取り替えます。
ばらし終えた状態です。これだけで十分に美味しそうです。写真を撮ってから下のほうに白い筋があるのを見つけたので再度洗いました。
3、醤油と日本酒、みりんをあわせたものに漬け込みます。上記のレシピ通り6:2:2の割合にしました。日本酒はいいものにすべきとあったので、料理酒ではなく飲み掛けのものを使いました。
この割合はかなり塩味が強いです。保存には適していますが、好みとしては醤油の量を少なくしてもよいと思いました。
4、漬けてから2時間で我慢できずに味見。既に美味しいです。レシピでは「2日目以降のほうが味が馴染んで美味しい」とありますが、かなり塩がきつくなると思い1日で漬け汁から引き上げました。
白いご飯と共にいただくのが一番でしょうが、クラッカーに載せても美味しかったです。大根の薄切りを添えてみました。奥にあるのはカラスミとオリーブの取り合わせです。
ウズベキスタンのイクラ
中央アジアで暮らしたご経験のある方からイクラにまつわる興味深いおはなしを伺いました。そもそもイクラはロシア語で魚卵の意味。キャビアは「黒いイクラ」というそうです。
ウズベキスタン、ロシアに魚卵ではない「イクラ」があるそうです。ナスやペッパーなどいろいろな野菜を刻んで調理したペースト状のもので、バルカン半島に行くと「アイヴァ」と呼ばれ、いづれも秋になると各家庭で大量に作り、小瓶に詰めて配るとのこと。今ほど物流のよくなかった時代には、野菜や果物が払底する長い冬に備えて準備した大切な保存食だったことでしょう。
しかしなぜイクラという名称なのでしょうか。その疑問に答えてくれるブログがありました。その部分を引用します。
ペースト状になった料理の中のナスの種がキャビアみたいだから、とか 料理した後のナスが変色してキャビアみたいな色になるから、とか キャビアに勝るとも劣らぬ美味しさだから、とか 諸説あってどれがホントか定かでありませんが、 とにかく「なすのキャビア」と呼ばれていたとしたら、 これをロシア語にすれば”ナスのイクラ”!
ロシア料理のレシピ本の片隅に こんなことが書かれてました。(中略)
「舶来のイクラ、ナスの(=Икра заморская, баклажанная)」 というのは、1973年にレオニード・ハイダイ氏が撮った <Иван Васильевич меняет профессию>という映画 の中のセリフです。
ソ連邦時代にもビンに入ったナスのイクラが 店の棚に積まれてはいたが、特別な需要は無かった。 しかし、映画のヒットの後、そのセリフが名句となり、 <舶来のイクラ>を食卓に供すことが おそらくはおもてなしとされた。」
この映画を通じて ”舶来の(フランスの?)イクラ” は一躍脚光を浴び、 魚卵じゃないのに”イクラ”という名を冠して キャビアに引けをとらない料理として食卓に並ぶようになった。
引用終わり。
「(元)ロシア専業主記婦日/ナスのイクラはなぜいくらなのか?」より。詳細はこちらでお読みください。野菜のイクラはどんなものなのかと思い、見つけたのが以下の諸々です。バルカン半島のアイヴァも併せてご覧ください。アイヴァ作りの画像も豊富です。
▲なすのイクラ
商品化されている瓶詰めの画像もありました。
(元)ロシア専業主記婦日/ これが「ナスのイクラ」です
http://gasaki.exblog.jp/i10
Tasting Russia/ Ikura
http://tastingrussia.blogspot.co.uk/2009_12_01_archive.html
▲マケドニアのアイヴァ
And now, my original plan becomes a reality!/ Harbingers of winter
http://4lew.wordpress.com/2012/10/23/harbingers-of-winter/
Life as a Peace Corp volunteer in Macedonia...Part II/ Making Ivar http://billinmacedonia.blogspot.co.uk/2010/09/making-ivar.html
12/02/2011
9/06/2011
長岡アジア映画祭、来週から(9/13 - 9/19)
スネオヘアーって長岡出身だったんだね。 スネオヘアー公式ホームページ
その彼をゲストに迎え、同じく長岡出身の五藤利弘監督の「雪の中のしろうさぎ」上映後にトークとミニライブを行うという。(9月18日15:20-映画上映)
16回目となった「長岡アジア映画祭」が今月13日から始まる。
(9月13日〜19日 会場:長岡リリックホール)
サイト:http://www.mynet.ne.jp/~asia/
ブログ:http://tsukurukai.blog103.fc2.com/
今年見たいと思っているのは次の作品だ。
「森聞き」柴田昌平監督、2010年、日本
「ブンミおじさんの森」アピチャッポン・ウィーラセタクン監督、2010年、イギリス=タイ=ドイツ=フランス=スペイン
「バビロンの陽光」モハメド・アルダラジー監督、2010年、イラク=イギリス=フランス=オランダ=パレスチナ=UAE=エジプト
見たいものは他にもあるのだが、日程的にいけるのは上記になるだろう。
昨年のカンヌ映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞した「ブンミおじさんの森」はDVDになっているが、他の2作品は上映会でしか見ることができない。
冒頭に書いたスネオヘアーはじめ、「ミツバチの羽音と地球の回転」の鎌仲ひとみ監督(上映後トーク)など、ゲストが多いのも長岡アジア映画祭の特徴である。
たくさん見たい方には、7日間有効のフリー券(5,500円)をお勧めする。他にも3回券(2,400円)、1回券(900円)、平日一日券(1,500円)などお得な前売券が絶賛発売中。当日は1,000円、平日一日券1,800円など。
プレイガイドなど詳しくは http://tsukurukai.blog103.fc2.com/blog-category-2.html
8/13/2011
お盆 五十六記念館 戦災資料館
お盆なので実家のある長岡へ。お墓参りは13日にするのが昔からの習慣だ。子どもの頃は、日が暮れてから提灯を持って親戚のお墓にお参りしたものだが、13年前からは、朝から行ってお掃除から始める。今年は若干出遅れたか、すでにお花が捧げられていた。お墓のある場所は市内の高台にあり、いつ行っても見晴らしがいい。目の前は畑がある。トウモロコシが勢いよく育っていた。
実家で久しぶりのテレビ鑑賞!8月は映画も戦争ものが中心で、未見だった「硫黄島からの手紙」と「トラ、トラ、トラ!」を観る。「トラ、トラ、トラ!」は真珠湾攻撃のことを描いた1970年制作のもので、山本五十六を山村聰が演じていた。そういえば、「山本五十六記念館」なるものが長岡にはあるが、行ったことがない。これを機に行ってみるかと翌日行くことに。
小さな駐車場は満杯で暑い盛りの時間にも関わらず多くの来場者がいた。ちょうど真珠湾攻撃に関する特集展示をやっていた。書簡にみる山本五十六の文字が、繊細であることが少々意外であった。郷土史家・稲川明雄氏の本を購入。
その後、徒歩圏内に立地する「長岡戦災資料館」へ。駅前のここは何度前を通ったか知れない。いつもガラガラで入りにくかったが、この日は10人ほどの人。こちらも真珠湾攻撃の特集展示を行っていた。ちょうど前述の映画「トラ、トラ、トラ!」で触れていたアメリカ側の被害状況が詳しくわかる資料展示であった。
2008年にNST(新潟総合テレビ)が制作したドキュメンタリー「昭和20年8月1日~語り継ぐ長岡空襲~」をちょうど流していたので視聴する。このドキュメンタリーで長岡空襲(8月1日)以前に大型爆弾(パンプキン爆弾)が落とされ、4人の人の命を奪っていたことを知る。(7月20日、左近町に落とされた模擬原爆については、こちらのブログに詳しい)
上記ドキュメンタリーで触れられていたが、長岡空襲の犠牲者の遺影を集める作業が今も続いているという。それは同資料館の3階に掲げられていた。小学校区ごとにまとめられ、氏名、亡くなった当時の数えの年齢、場所が記されている。防空壕の中、平潟神社、柿川の中など、長岡の中心街の惨状がその文字列で想像できた。
終戦当時小学1年生であった母親は、中心街から離れた親戚宅に疎開していた。生家にもどったのは1年後とのことである。その時、長岡駅から長生橋まで見渡せた記憶があるという。幸いにも母親の生家は道一本ギリギリのところで燃えずに済んだ。その証拠となる地図を同資料館で確認することが出来た。父親の生家のある地区は、市内でも犠牲者の多かった地区であるという。周辺一帯、真っ赤だった。地図は昭和20年当時の国土地理院のもの。
| 母の生家は青色。道一本で燃えず。母校も逃れていた。 |
| 父の生家は赤色。この地区の犠牲者は2番目に多い |
| 長岡戦災資料館の3階 |
8/03/2011
2011年の長岡花火:メメント・モリ
| フェニックス(携帯で撮影) |
1日は長岡空襲のあった日だ。日本一の長岡花火はその慰霊のために始まった。単なる観光イベントではないのだ。今年は大会2日目(8月3日)に駆けつけた。
7月29日、30日の豪雨で花火会場である信濃川の河川敷も被害を受けていた。既に準備されていた観覧席の多くが流され、テントの屋根しか見えないほどの水。花火打ち上げ会場も冠水しているという。どうなるのか。インターネットで長岡のひとがアップする写真を見ながらやきもきしていた。(私が見ていた被害状況を伝える写真)実家付近のよく知った場所が冠水、川が氾濫もしていた。
豪雨が収まってからは水もひき、会場の復旧作業が夜遅くまで行われ中止はまぬかれた。(その様子を伝える声)
3日の午後、ゲリラ豪雨が会場を襲う。ちょうど国道を走っているときだった。前方の景色が異様で、上空と路面が黒い。今まで快晴だったのに、突然豪雨に突入した。ワイパーを最速にしても見えづらいほどの雨量だ。しかし花火打ち上げの3時間ほど前にはやんだ。
例年より早めに会場に行く。今年から(なのか)17時以降は入場が制限されるとあったためだ。40万人もの人がくるわけだから、狭い土手への階段などで将棋倒しの事故になってはいけない。主催側の意向はよく理解できる。
メイン会場から少し離れた無料観覧席に腰を下ろす。フェニックス観覧席は、午後のゲリラ豪雨で水たまりができている。場所取りのブルーシートにもたっぷりの雨。しかし、簡易トイレは立派に設置され、救護や本部、物販のテントも数多く建っている。短時間でこれだけの復旧がなされたとは、正直驚くとともに、関係者の方々への感謝の念でいっぱいだった。
長岡空襲、東日本大震災、中越地震、この度の三条市、十日町市を中心とする水害。亡くなられた方々への祈りと災害の復興を祈願して、最初の花火があがった。40万人(推定)の黙祷。
19時過ぎから21時までの花火の響宴は、物心ついたときから見ていても圧倒される迫力だった。美しい。しかし、今年はいつもと心持ちが違った。
そもそもの由来が慰霊である。長岡人なら誰でも知っている。「花火、きれいー」と思いながらも頭の隅では、空襲で川に飛び込んだ人の話しなどが思い出される。
今年はどうしたって津波の映像がフラッシュバックする。黒々とした水が車や建物を押し流し、逃げ惑う人々の映像。またどれだけ読んだか知れない災害の記事、記録、言葉そして写真。そして今なお続く福島第一原発事故の影響。
夜空に大輪の花を咲かせ、数秒後には消え去る花火が、命の儚さに思えてしかたなかった。奇しくも一緒に見ていた母が言う。「あと何回この花火がみられるだろうか。見られる限り、土手に見に来ようと思う。」と。
長岡花火が慰霊の花火であるということを、今年ほど強く思った年はない。メメント・モリ。
4/03/2011
8/10/2010
9/6-9/12 長岡アジア映画祭/追記 クロッシングの監督来日
今年も長岡アジア映画祭事務局からご案内が届きました。9月6日から12日まで、長岡リリックホールで開催されます。上映スケジュールは下記公式サイトにありますし、紙のパンフレットは弊社事務所にもありますので、お近くの方はぜひ手に取ってご覧ください。少額ながら広告を出しましたので紙パンフに載っています。
公式サイト http://www.mynet.ne.jp/~asia/
ブログ http://tsukurukai.blog103.fc2.com/
見逃していた問題作「クロッシング(2008年/韓国)」の上映があり、早速カレンダーに記入しました。なかなか全作品制覇は難しいですが、この映画祭でしか見られない作品はチェックしておきたいです。
【追記】クロッシングの監督、キム・テギュン監督が映画祭に急遽参加決定したそうです!
9月12日(日)12時20分~「クロッシング」上映前に小林三四郎さんと共に舞台挨拶を行うとのこと。楽しみですね。
http://tsukurukai.blog103.fc2.com/blog-entry-1012.html
キュレーションから事業運営全般を行っている「市民映画館をつくる会」は、長岡在住以前からお世話になっていました。以前勤めていた配給会社の映画をこの映画祭で上映して下さったのです。「ナヌムの家」というドキュメンタリー作品です。東京・東中野の劇場公開初日に、右翼が上映妨害した作品として、記憶に残っている方もいらっしゃるかもしれませんね。
その後、長岡にUターンしてすぐに事務所をお訪ねし、会に入れていただきました。映画祭の他、定期的に上映会をやっていて、もぎりや会場整理のお手伝いをしました。
映画祭のゲストとしていらっしゃった大杉蓮さん、仲村トオルさんにお目にかかれるというラッキーなこともありました。
運営スタッフは皆さんボランティアで、本業並みに(中にはそれ以上に)働いていらっしゃいます。大手通り中心にある事務所は、映画祭前になると夜遅くまで灯りがついています。
当日のボランティアも募集中とのことですので、ぜひ興味のある方は行ってみて下さい。とても楽しいです。
公式サイト http://www.mynet.ne.jp/~asia/
ブログ http://tsukurukai.blog103.fc2.com/
見逃していた問題作「クロッシング(2008年/韓国)」の上映があり、早速カレンダーに記入しました。なかなか全作品制覇は難しいですが、この映画祭でしか見られない作品はチェックしておきたいです。
【追記】クロッシングの監督、キム・テギュン監督が映画祭に急遽参加決定したそうです!
9月12日(日)12時20分~「クロッシング」上映前に小林三四郎さんと共に舞台挨拶を行うとのこと。楽しみですね。
http://tsukurukai.blog103.fc2.com/blog-entry-1012.html
監督メッセージ●
私の人生で忘れられない記憶のひとつに
10年前に見た北朝鮮に関するドキュメンタリー映像がある。
妻と子供たちと共に一家団欒している時だった。
テレビを通して余りにも胸の痛い映像が目に飛び込んできたのは。
コッチェビといわれる5、6歳の幼い子供たちが
道端に落ちているウドンを拾って、汚いどぶの水ですすいで食べている。
私は言葉が出なかった。
私が存在しているということ、私が生きているということに対する
とてつもない懐疑にとらわれた。
すぐ近くで、すぐに行けるに違いない所で起きていることが、
信じられず、恐ろしく、また恥ずかしかった。
その後、私の頭の中からその子供の顔が消えることはなかった。
それから10年が経った今、
「クロッシング」は私の人生を改めて考えさせる作品となった。
ともすると、この作品を完成させるために私は存在するのではなかろうか?
あの時のあの恥ずかしさが
「クロッシング」という作品を最後まで仕上げるための原動力となった。
監督 キム・テギュン
キュレーションから事業運営全般を行っている「市民映画館をつくる会」は、長岡在住以前からお世話になっていました。以前勤めていた配給会社の映画をこの映画祭で上映して下さったのです。「ナヌムの家」というドキュメンタリー作品です。東京・東中野の劇場公開初日に、右翼が上映妨害した作品として、記憶に残っている方もいらっしゃるかもしれませんね。
その後、長岡にUターンしてすぐに事務所をお訪ねし、会に入れていただきました。映画祭の他、定期的に上映会をやっていて、もぎりや会場整理のお手伝いをしました。
映画祭のゲストとしていらっしゃった大杉蓮さん、仲村トオルさんにお目にかかれるというラッキーなこともありました。
運営スタッフは皆さんボランティアで、本業並みに(中にはそれ以上に)働いていらっしゃいます。大手通り中心にある事務所は、映画祭前になると夜遅くまで灯りがついています。
当日のボランティアも募集中とのことですので、ぜひ興味のある方は行ってみて下さい。とても楽しいです。
8/02/2010
長岡花火までの道のり
長岡花火の頃に妹が帰国するというので、私的な予定は一切入れず、仕事も入らねばいいなぁ内心祈っていた。ま、そううまく運ぶはずもなく、夕方終わった会議の後、一路長岡へ車を飛ばす。
長岡大手大橋西詰めは、予想通り大渋滞であった。普段歩道を歩く人などほとんどいないのであるが、敷物やクーラーボックスを担いだ人で溢れている。長岡駅から最も近く、花火観覧の中心の場所であるから当然であろう。
通行止めとなる時刻を調べていなかったので、時間が気になる。さて、ようやく渡りきったが、今度は左折ができない。駅方面からどんどんと人がやってくる。青信号の時間一杯人が渡っているので、左折ができないのだ。急遽直進にかえ、かなり大回りをして実家のある小路へ。普段ガラガラの小路が県外ナンバーの路上駐車で埋まっていた!駐車禁止の小学校前の通りもびっしりと車。信濃川河川敷まで徒歩3分の好立地も、長岡花火の夕刻は自宅にも帰れないという罠。
予定より随分と遅れて帰宅。すぐに夕飯を済ませ土手へ向かう。長岡大手大橋付近は大混雑しているのはわかりきっている。土手にいく階段ものぼれないだろう。中島幼稚園近くから土手にのぼり、フェニックス席側の無料観覧席を目指す。私はフェニックスさえ見られればいいのだ。4人なので場所取りブルーシート群の隙間にちんまりと座る。観覧中、言葉は少ない。
長岡花火の半端ない打ち上げ数、目を見張る演出。いったい予算はいくらなのだ。長岡市政便りに昨年のものが記載されていた。
1億5千万円の花火もすごいが、2億近い寄付金に驚いた。花火の観光客の数も半端ないはず。長岡市内の宿泊施設は1年前には予約されているという。会場近くのスーパーは、レジを見るだけで卒倒するくらいの混雑だ。ふるさとが一年で最も活気ずく2日間である。
2010年のニューフェニックス動画
H22.08.05 2010「復興祈願花火ニューフェニックス」を選択
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/shisei/video/naji.html
長岡大手大橋西詰めは、予想通り大渋滞であった。普段歩道を歩く人などほとんどいないのであるが、敷物やクーラーボックスを担いだ人で溢れている。長岡駅から最も近く、花火観覧の中心の場所であるから当然であろう。
通行止めとなる時刻を調べていなかったので、時間が気になる。さて、ようやく渡りきったが、今度は左折ができない。駅方面からどんどんと人がやってくる。青信号の時間一杯人が渡っているので、左折ができないのだ。急遽直進にかえ、かなり大回りをして実家のある小路へ。普段ガラガラの小路が県外ナンバーの路上駐車で埋まっていた!駐車禁止の小学校前の通りもびっしりと車。信濃川河川敷まで徒歩3分の好立地も、長岡花火の夕刻は自宅にも帰れないという罠。
予定より随分と遅れて帰宅。すぐに夕飯を済ませ土手へ向かう。長岡大手大橋付近は大混雑しているのはわかりきっている。土手にいく階段ものぼれないだろう。中島幼稚園近くから土手にのぼり、フェニックス席側の無料観覧席を目指す。私はフェニックスさえ見られればいいのだ。4人なので場所取りブルーシート群の隙間にちんまりと座る。観覧中、言葉は少ない。
長岡花火の半端ない打ち上げ数、目を見張る演出。いったい予算はいくらなのだ。長岡市政便りに昨年のものが記載されていた。
長岡まつりの収支(長岡市政便りより抜粋)
【収入】収入合計:3億8078万円
寄付金:1億9317万円
観覧席売上:1億4302万円
その他、警備など。
【支出】支出合計:3億8078万円
内、花火行事費:1億5411万円
1億5千万円の花火もすごいが、2億近い寄付金に驚いた。花火の観光客の数も半端ないはず。長岡市内の宿泊施設は1年前には予約されているという。会場近くのスーパーは、レジを見るだけで卒倒するくらいの混雑だ。ふるさとが一年で最も活気ずく2日間である。
2010年のニューフェニックス動画
H22.08.05 2010「復興祈願花火ニューフェニックス」を選択
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/shisei/video/naji.html
5/05/2010
集落の歴史
先日、市内の山村にお住まいの古老より、集落の歴史をうかがう機会があった。今は廃校となって随分と経つ分校の歴史を冊子にまとめられた方である。知っている人も僅かとなった今、忘れてしまわぬうちに集落の歴史もまとめようと、現在精力的に調査研究を行われている。
小さな集落の中に3つも神社があったという。新潟県が最も神社の数が多いという読売新聞の先月の記事を思い出した。そのひとつでは 刀の柄などが出土していたそうだ。
昭和34年に初めて耕耘機が入ってくるまで、代掻きは牛の仕事であった。牛の爪切り場のことを覚えているのは60代以上の方々で、そのお話しを楽しそうにしてくださった。
明治22年頃は32軒、昭和40年までは30軒。その後は減少の一途を辿ることになる。最盛期は1,200俵の米の収穫があったそうだ。
寿永2年(1183年)に既に人が入村していたという記録もあるとのことで、雪深い山里で現在のような道も、ましてや除雪もない中で、どんな暮らしをしていたのだろうかと思いを馳せた。
現在行政区分が異なる上越市板倉区との交流が深かったとのことで、この集落から板倉へ続く道を下見してきた。「菰立(こもだて)」「機織(はたおり)」「飯喰沢(いぐいさわ)」と、いかにも歴史を感ずる集落名である。そして、思いの外近いこともわかった。
小さな集落の中に3つも神社があったという。新潟県が最も神社の数が多いという読売新聞の先月の記事を思い出した。そのひとつでは 刀の柄などが出土していたそうだ。
昭和34年に初めて耕耘機が入ってくるまで、代掻きは牛の仕事であった。牛の爪切り場のことを覚えているのは60代以上の方々で、そのお話しを楽しそうにしてくださった。
明治22年頃は32軒、昭和40年までは30軒。その後は減少の一途を辿ることになる。最盛期は1,200俵の米の収穫があったそうだ。
寿永2年(1183年)に既に人が入村していたという記録もあるとのことで、雪深い山里で現在のような道も、ましてや除雪もない中で、どんな暮らしをしていたのだろうかと思いを馳せた。
現在行政区分が異なる上越市板倉区との交流が深かったとのことで、この集落から板倉へ続く道を下見してきた。「菰立(こもだて)」「機織(はたおり)」「飯喰沢(いぐいさわ)」と、いかにも歴史を感ずる集落名である。そして、思いの外近いこともわかった。
犬がいたのでついパチリ。
2/03/2010
香港ブロガーの妙高体験
香港ブロガーの妙高体験の様子がアップされました。
英語ですがわかりやすいです。ぜひご覧くださいませ。
http://kwchk.com/blog/?p=127 ←弊社にいらした日の感想
http://kwchk.com/blog/?m=201001 ←新潟ツアー初日からの様子
http://kwchk.com/blog/?m=201002 ←妙高・赤倉・杉の原での様子
もうおひと方の感想はfacebookなので、ちょっくら覗いてきます。
1/14/2010
泉田新潟県知事のtwitter

twitter(ツイッター)というwebサービスを耳にしたこともあるかと思う。ここでも以前触れたことがある。140文字の投稿ということでマイクロブログと表現されることもあるが、なかなか説明するのが難しい代物だ。
利用者の中には政治家も多くいる。昨日はずっと利用を固辞していた自民党河野太郎氏が始めた。他にも鳩山首相や蓮舫氏、山本一太氏などの国政に関わる方や、地方議会議員、首長などの利用がみられる。
参考:ツイッターと政治(http://politter.com/nation/)
新潟県知事がtwitterを始めていることを最近知った。(http://twitter.com/IzumidaHirohiko)
そして今日の投稿がなかなか興味深い。
「先ほど、記者会見で、移動知事室 in 上越 の実施を発表してきました。 情報通信技術の進歩の中で組織運営に問題が生じないかも検証したいと思います。 仮に知事室が物理的に移動できることになると、「県庁所在地っていう概念ってどうなるのかなぁ?」 なんて、考えてしまいます(^^)。」
南北に長い新潟県では、長野県境に位置する妙高高原に暮らす者にとって、県庁所在地の新潟市は遠い。知事室が移動することによって県政が身近に感じられるようになるのではないか。
今回の移動知事室を上越にもってくることは、北陸新幹線の絡みもあるのだろうか。
ともかく、新しい発想で行動を起こす知事に注目してきたい。
【追記】
「移動知事室」でググると、各地で実施されているのがわかるが、どれも知事が各地に赴き県民の声を聞くといったものだ。今回のそれがどのようなものなのか、詳細が見当たらないので明確なところはまだわからないが、泉田知事の上記の文章に「物理的な移動」「県庁所在地っていう概念」という表現があるので、催し的なものではないように思える。
【追記】
夕方の県内ニュースで報道された。
今月3日間、地域振興室内に開設されるとのこと。
しかし、新潟県のホームページには何の情報も上がってない件。記者会見の欄も同様。残念。
【追記 2/3】
グーグル検索でこちらにいらした方は、検索結果の中に「本物ではない」というサイトもご覧になったと思います。私もそれを読んで早まったかと思いましたが、投稿されている写真や記事内容を検討すると、間違いなく県知事であると判断致しました。
新潟県知事がtwitterを始めていることを最近知った。(http://twitter.com/IzumidaHirohiko)
そして今日の投稿がなかなか興味深い。
「先ほど、記者会見で、移動知事室 in 上越 の実施を発表してきました。 情報通信技術の進歩の中で組織運営に問題が生じないかも検証したいと思います。 仮に知事室が物理的に移動できることになると、「県庁所在地っていう概念ってどうなるのかなぁ?」 なんて、考えてしまいます(^^)。」
南北に長い新潟県では、長野県境に位置する妙高高原に暮らす者にとって、県庁所在地の新潟市は遠い。知事室が移動することによって県政が身近に感じられるようになるのではないか。
今回の移動知事室を上越にもってくることは、北陸新幹線の絡みもあるのだろうか。
ともかく、新しい発想で行動を起こす知事に注目してきたい。
【追記】
「移動知事室」でググると、各地で実施されているのがわかるが、どれも知事が各地に赴き県民の声を聞くといったものだ。今回のそれがどのようなものなのか、詳細が見当たらないので明確なところはまだわからないが、泉田知事の上記の文章に「物理的な移動」「県庁所在地っていう概念」という表現があるので、催し的なものではないように思える。
【追記】
夕方の県内ニュースで報道された。
今月3日間、地域振興室内に開設されるとのこと。
しかし、新潟県のホームページには何の情報も上がってない件。記者会見の欄も同様。残念。
【追記 2/3】
グーグル検索でこちらにいらした方は、検索結果の中に「本物ではない」というサイトもご覧になったと思います。私もそれを読んで早まったかと思いましたが、投稿されている写真や記事内容を検討すると、間違いなく県知事であると判断致しました。
12/17/2009
新潟市は大雪、こちらは...
12/08/2009
暮らしのうつわ展 - 村山大介陶芸研究所
シンプルなフォルムにひかれた。
山田さんのところを再び訪ねると、販売もしているとわかり購入した。
新潟県十日町の陶芸作家、村山大介さんの作品。
本日、村山さんより個展のご案内を戴いた。上越市で開催される。
「暮らしのうつわ展」
12月10日(木)~15日(火)
場所「和雑貨 おおすぎや」
http://oosugiya3.com/access/index.html
「なぜかいつも手にとってしまう・・・そんな器達と共にお待ちしております。
良かったら見にきてください。村山大介陶芸研究所より」
http://oosugiya3.
「なぜかいつも手にとってしまう・・・
良かったら見にきてください。村山大介陶芸研究所より」
立て続けに2枚も皿の縁を欠いてしまったのは、このためだったのかも.....。
11/06/2009
薄氷の行方
古い絵はがき。意外と色あせていない。
絵はがきが好きで十数枚常備している。収集が目的ではなく、ちょっとしたお礼や季節の挨拶に使うためだ。したがって常に回転している。その中で1枚、ずっと持ち続けているものがある。図案は佐伯祐三(1898-1928)の広告塔(1927)という油彩画である。葉書の表には「長岡現代美術館」と印刷してある。
少々小ぶりのこの絵はがきであるが、複数購入し最後の一枚となったのか、最初から一枚で誰にも出さずにいたのか記憶が定かではないのだが、この絵が気に入って買ったことは間違いがない。美術館の歴史を振り返ってみると、購入したのは私が中学生の時だったようだ。30年以上持っていたことになる。
長岡現代美術館は大手通り商店街の大和デパート隣にあった。現在は商工会議所になっている。1964年に竣工、1979年の休眠まで、大光銀行のコレクションを展示する日本で初めての現代美術館として親しまれていた。賑わいのある大手通りに立地していたので、買物のついでに立ち寄ることができた。上記の佐伯祐三の作品も大光コレクションのひとつで、現在は新潟県立近代美術館(長岡市)に収蔵されている。
建物は当時のまま残っている。建物正面の壁面には斎藤義重(1904-2001)による前衛的な鉄の美術品が設置され、その前には白い石を敷き詰めた庭がこしらえてある。ここの景色は45年変わらない。私の好きな場所のひとつだ。
▶建物外観の写真がこちらのサイトにありました。和田正則の建築LOGBOOK / 和田正則・建築環境計画 http://mawada.exblog.jp/9642321/
先日ご紹介した「懐かし長岡DB」の中に長岡現代美術館にあった作品について書いている方がいらした。それを読んでその作品を確かに見たことを思い出したのだった。この美術館は中学校の学区域内にある。本物の美術作品に触れるようにという美術教師の想いもあったのだろう。ここを訪れ、気に入った作品ひとつについて感想を述べるという課題が中3冬休みの宿題として出されたのだ。
私の心をとらえた作品は「薄氷(1969)」というタイトルだった。枯葉の詰まった池に薄氷がうっすらと張っている。全体的に暗い色調。細かな水泡や水の流れ、厳しい冬とやがて来る春を予感させる池に差し込む柔らかい光。ひたすら静かな絵だった。薄氷というタイトルも気に入ったことのひとつだった。中3の冬休みとえば高校受験直前。当時推薦などはなく試験一発勝負だった。自分の抱えている漠然とした不安を表す言葉として、この「薄氷」がぴったりだと思ったのだ。薄い氷の儚さ、もろさ。訪れて欲しい「春」。
長い間、この絵のことは忘れていた。作者がアンドリュー・ワイエス(1917-2009)であることを確認したのは、「懐かし長岡」のエントリを見たつい先日のことだ。セゾン美術館等で催されたワイエス展に足を運んでいるが、中3の時の受け止め方とは隔たったものだった。アメリカン・リアリズムにはそれほど興味をかき立てられなかったのだ。薄氷はそれらとは違ったのか。確認する術がない。なぜなら現在、薄氷の行方はわからないのだ。大光銀行が破綻した際、コレクションの約半分を売り払ってしまったためだという。
少々小ぶりのこの絵はがきであるが、複数購入し最後の一枚となったのか、最初から一枚で誰にも出さずにいたのか記憶が定かではないのだが、この絵が気に入って買ったことは間違いがない。美術館の歴史を振り返ってみると、購入したのは私が中学生の時だったようだ。30年以上持っていたことになる。
長岡現代美術館は大手通り商店街の大和デパート隣にあった。現在は商工会議所になっている。1964年に竣工、1979年の休眠まで、大光銀行のコレクションを展示する日本で初めての現代美術館として親しまれていた。賑わいのある大手通りに立地していたので、買物のついでに立ち寄ることができた。上記の佐伯祐三の作品も大光コレクションのひとつで、現在は新潟県立近代美術館(長岡市)に収蔵されている。
建物は当時のまま残っている。建物正面の壁面には斎藤義重(1904-2001)による前衛的な鉄の美術品が設置され、その前には白い石を敷き詰めた庭がこしらえてある。ここの景色は45年変わらない。私の好きな場所のひとつだ。
▶建物外観の写真がこちらのサイトにありました。和田正則の建築LOGBOOK / 和田正則・建築環境計画 http://mawada.exblog.jp/9642321/
先日ご紹介した「懐かし長岡DB」の中に長岡現代美術館にあった作品について書いている方がいらした。それを読んでその作品を確かに見たことを思い出したのだった。この美術館は中学校の学区域内にある。本物の美術作品に触れるようにという美術教師の想いもあったのだろう。ここを訪れ、気に入った作品ひとつについて感想を述べるという課題が中3冬休みの宿題として出されたのだ。
私の心をとらえた作品は「薄氷(1969)」というタイトルだった。枯葉の詰まった池に薄氷がうっすらと張っている。全体的に暗い色調。細かな水泡や水の流れ、厳しい冬とやがて来る春を予感させる池に差し込む柔らかい光。ひたすら静かな絵だった。薄氷というタイトルも気に入ったことのひとつだった。中3の冬休みとえば高校受験直前。当時推薦などはなく試験一発勝負だった。自分の抱えている漠然とした不安を表す言葉として、この「薄氷」がぴったりだと思ったのだ。薄い氷の儚さ、もろさ。訪れて欲しい「春」。
長い間、この絵のことは忘れていた。作者がアンドリュー・ワイエス(1917-2009)であることを確認したのは、「懐かし長岡」のエントリを見たつい先日のことだ。セゾン美術館等で催されたワイエス展に足を運んでいるが、中3の時の受け止め方とは隔たったものだった。アメリカン・リアリズムにはそれほど興味をかき立てられなかったのだ。薄氷はそれらとは違ったのか。確認する術がない。なぜなら現在、薄氷の行方はわからないのだ。大光銀行が破綻した際、コレクションの約半分を売り払ってしまったためだという。
次回長岡に帰ったら県立近代美術館と駒形十吉記念美術館を訪ねてみようと思っている。売却を逃れた大光コレクションの数々と、「広告塔」との30年ぶりの再会のために。それから、現代美術館の建物も撮影しておきたい。
【2013/10/7追記】思い出したように薄氷の行方を調べている。美術館の収蔵品を洗いざらい調べてみたい。
さて、今回興味深い記述を見つけた。長岡現代美術館が日本で初めてワイエスを紹介したと言うもの。以下「山を歩いて美術館へ」からの引用です。
【2012/2/19追記】2009/11/29撮影。長岡現代美術館(現長岡商工会議所)、ビルの正面玄関にある斎藤義重の作品「大知浄光」と外観。
【2013/10/7追記】思い出したように薄氷の行方を調べている。美術館の収蔵品を洗いざらい調べてみたい。
さて、今回興味深い記述を見つけた。長岡現代美術館が日本で初めてワイエスを紹介したと言うもの。以下「山を歩いて美術館へ」からの引用です。
さて、一般にワイエスの日本での最初の展覧会は,この文のはじめに書いたように、1974年といわれるが、その74年の展覧会の図録に、それより前にワイエスの展覧会があったことが書かれている。見に行きたかった!とじつにそそられる文章で、古い展覧会の図録は簡単には手にできないと思うので、その展覧会に関する箇所をかなり長くなるが引用する。
1969年の夏に,長岡現代美術館は「ボッチオーニとワイエス」という展覧会を開いた。同館ではこの年ボッ チオーニの「人物とテーブル」(1914年作)と,ワイエスの「薄氷」(1969年作)二点を購入し,この披露 という意味であった。まるで時代もスタイルも全く違った二点だけの展覧会ということで,取合わせの妙に 興味をひかれたが,その展示がまた変っていた。ギャラリーはそう広いものではないが,作品を全部とり払 い,たった二点だけむかいあった璧にかけ,照明をおとして暗くし,ただスタンドー本づつを傍にポツンと 立てて,画面を照射しているだけであった。私は頼まれて,展覧会のバンフレットに,ボッチオーニの方の 解説を書いていただけに,はじめはそのダイナミックな作品の激しさをたしかめるようにながめていた。ほ とんど観覧者はいなかったように思うが,暗いパントマイムのような沈黙と空白がギャラリーの中にただよ っていて,私は次第に「薄氷」の方の静けさにひきこまれていったようである。枯葉が一杯埋まった池に, 薄氷がうっすらとはってきたところである。私は思わずボッチオーニに背をむけて腰をおろして見ているう ちに,絵の中の森羅万象がギャラリーの沈黙の中に冷えこんできて,シンが寒くなってくるようであった。 そして薄氷がパチンと割れて,もののけがうごめくのを覚えたが,その時,私はリアリズムの中にあるワイ エスを知ったと思ったのである。 (本間正義東京国立近代美術館次長)
【2012/2/19追記】2009/11/29撮影。長岡現代美術館(現長岡商工会議所)、ビルの正面玄関にある斎藤義重の作品「大知浄光」と外観。
9/25/2009
葡萄
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