6/04/2011

22年目の6月4日

何か書こうと思いつつも、まとまらず過ぎてしまった6月4日。今年は22年目とのこと。昨年妙高高原の取材でいらっしゃった香港のりえさんが、この日の香港の様子をまとめられている。15万人の人がヴィクトリアパークに集まり、22年前の事件で命を落とされた人たちを悼んだそうだ。

▶ジャパナビりえ的香港TV道 : 毋忘「鹿死」VIIV


記憶力の劣る私が、天安門事件は1989年6月4日と迷わずいえるのにはわけがある。その年の8月に北京と上海に行く予定を立てていたからだ。事件から2ヶ月しか経ってない夏の渡航は取りやめたが、半年後の12月の終わりに行った。初めての中国。団体ツアーではなく、個人でチケットをとる旅行スタイルも初めて。とはいえ、旅慣れた年上の友人が全て手配し、くっついていくだけであった。

宿泊した北京飯店は東長安街(通り)に面している。学生たちプロテスターが歩き、銃撃された通りだ。天安門広場はこの通りをまっすぐいった所にある。
天安門広場は何事もなかったかのように静かで、ところどころに人がいた。しかし仔細に見れば石の階段の縁は欠け、石畳に亀裂が入っている。事件の爪痕だろう。モスグリーンの制服を着た公安の数が多い。20人くらいの集団で、あちこちにいる。どの顔も若い。広場近くの歴史博物館は見学する事は出来なかった。軍が使用していたからだ。
北京市内は夜間は戒厳令がしかれ、歩いている人はパトロールする公安だけだった。市民の顔つきはどうだっただろう。それ以前との比較はできない。印象としては暗い表情。政治的な話題はしないだろうし、政府批判などもってのほかだろう。政治的な話はしないということは、上海で案内をしてくださった方が仰っていた。誰がどこで耳をそばだてているかわからないと。


短い滞在中不愉快な事が3件あった。


北京到着が夜だった。夕飯を食べるために入ったローカルな食堂の支払いでもめた。注文もしない品を次々に運び、断っても執拗に置いていく。あげくの果てに高額請求と来たのだ。にわか仕込みの中国語で口喧嘩はさすがに無理。日本語でこちらもまくしたてる。仲介に入った地元の人が英語が話せたので、時折英語も混ざるが、最終的には中国語対日本語だ。長い口喧嘩だった。仲介に入ってくれた人も呆れて帰ってしまったほどだ。言い値より下だが、相場からは随分高い額を支払って終了。授業料も含んでいる。

2つ目は天安門広場で起きた。とにかく広い。広場の入り口は遥か向こうだ。広場の境目は高さ30センチほどにチェーンの柵がしてある。そこを跨いで広場に入った。すると、公安が走ってきてパスポートを見せろという。渡した。そのまま広場の別の所にたまっている公安の群れにいく。なかなか返してくれない。柵を跨いだくらいで罪に問われるとは思えないが、あの事件があった国だ。ちょっとビビる。自分のパスポートが若い公安の手から手へと渡っていく。どの顔もにやけている。ようやく手元に戻った時には、公安の暇つぶしされたのだとわかる。

3つ目は上海空港から市内に入る時に起きた。乗ったタクシーが自転車で前を行く人をはねたのだ。運転手は路肩に駐車する。しかし自分は降りようともしない。メーターをとめ、ここまでのタクシー料金を告げる。その間、ボンネットに乗り上げ、路面に落ちた人は、血を流し倒れたままだ。後続のマイクロバスが停車して誰かが降りてくる。そしてバスの中に運びいれる。タクシーの料金は,私たちを迎えにきてくれた上海の医師が支払った。そして彼の言葉に絶句する。「この国は人口が多いですから」。旅行中、警察から呼ばれて事故の事情聴取をされるということもなかった。命が軽い。


トラブルのあった旅行ほど鮮明に記憶に残るものだ。初めて訪れた国で自分にとっては強烈なトラブル、忘れようはずがない。しかもテレビで見ていた歴史的な事件の「あの場所」に実際に立った。あの時撮った写真も、書いた文章も散逸してしまい今は何も記録したものがない。しかし断片的なシーンや現地の人と交わした会話、町の匂いは記憶の中にある。
国際ニュースを流し見るだけで、世界で今なにが起きているかには関心の低かった私が、ヒューマンライツに目を向け始めた事件でもある。

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コメントを寄せてくださった風任さんの記事。コメントも含めて必読。
http://plaza.rakuten.co.jp/kuttyayomi/diary/201106060000/