11/09/2011

南相馬の子どもの作文から

きのう妙高市報が届いていた。その中に福島県南相馬市から8月末まで避難していた、小学5年生の作文が掲載されていた。(こちらで全文読むことが出来ます

「妙高市民のみなさんへ」と題されたその作文を読み、改めて福島第一原発事故が与えた「被害」の大きさを思う。作文は妙高の生活で出会った人たちへの感謝のことばが綴られているのだが、ときおり差し挟まれる一文に、表現されていない重い気持ちが読み取れるのである。
妙高小学校に転校したという段落でこんな一文がある。

「お友達はぼくを差別しないでふ通にいろんな話をしてくれました。」

「急にひなんしてきた」のは3月春休みの頃だった。その頃私も避難所となっていた自然の家を訪れ、子どもたちと会っている。まだたくさんの雪が残る屋外で雪遊びに出るために、市民から寄せられた衣料の中から手袋と帽子、長靴を借りていたのを思い出す。遊びから帰って来ると、それらをまた返し、礼儀正しく御礼を述べていた。
学校が始まるまでの間、子たちの心の中にあった不安。通常の転校でさえ、新しい環境への不安があることは容易に想像できる。その頃、福島の人たちへのいわれのない差別の言葉がでていた(今でもある)が、子どもたちの耳にもそれは入っていたのだ。それは不安というより、恐怖に近かったのではないか。

自主避難されてきた方たちが自然の家を去るまでの間、幾度か訪れていたので顔見知りになった方がいらっしゃる。その方と交わした言葉の中で忘れられないものがある。小さな女の子をお持ちの方だった。その子に目をやりながら仰った。

「将来結婚できないといけないから、この子のためにとにかく逃げますよ。」 

最初何を仰っているのか意味が分からなかった。その後、被曝差別のことだと思い至る。そんな心配ないですよ、と返したものの、その方の不安に対し何の思いやりもない言葉だったと考え込んだ。
匂いもせず目にも見えない放射性物質に神経を尖らせている日本だが、容易に見えない差別感情も人々を疲弊さえ、恐怖に陥らせていることを忘れてはならない。